
北条早雲とは後世の呼び名であり、生前は伊勢新九郎盛時といいました
伊勢家が北条姓を称したのは2代目氏綱の時代です
従って早雲の存命中には北条家はなかったのですが、一般的に北条早雲と呼んでいます
戦国時代初期の武将であり、後北条氏の祖であり、下克上の典型的な人物です
早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がったと言われていましたが、
早雲の父・伊勢盛定が八代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいたらしく、
それほど身分が低かった訳ではないようです
早雲は備中(現在の岡山県)で康正2年(1456年)生まれました(異説あり)
1481年頃から将軍義尚に仕えています
時代は前後しますが、駿河の守護今川義忠に姉(妹という説あり)が嫁いでいます
そしてこの姉が1473年に今川家の世継ぎの龍王丸(後の今川氏親)を生んでいます
1476年に今川義忠が戦で亡くなった後に今川家に家督争いが起こり、
早雲は駿河へ行って調停をしています
この時に、不利とされていた龍王丸を正式に今川家世継ぎに決定させ将軍の承認も取り付けました
その後、早雲は京へ戻りますが、今川範満が龍王丸になかなか家督を継がせないために、
再び駿河へ行き兵を起こして範満一派を滅ぼして龍王丸(氏親)を今川家当主とさせました
この時に現在の沼津市の所領を与えられ今川氏の家臣となりました
腐敗していた京に嫌気が差した為だという説もあります
この後、早雲は伊豆を支配していた堀越公方を滅ぼし伊豆一国を手中に収めます
これが戦国時代の始まりと言われています
この間に出家して「早雲」を名乗り、伊豆国韮山城に本拠地を移しました
早雲は氏親と連携して徐々に領土を拡大して行きます
1501年(異説あり)には小田原城を奪っています
その後も東へ向かって千葉にまで攻め込んでいます
小田原城は後に後北条氏の本城となるわけですが、早雲は最後まで伊豆韮山城を居城としていました
北条早雲は、名も無い浪人から大きく出世した戦国大名の代表の様に扱われていますが、
最近の説では、もともと足利将軍に仕えていて、家柄も悪くないとされています
いずれにしても、縁もゆかりも無かった東国で力を発揮して大大名になったという痛快な人生を送った事には間違いありません
以前に箱根湯本に行った時に近くの山の中に早雲寺という寺がありました
これは北条氏綱が父早雲の指示で建立したそうですが、訪れる人も少なくひっそりとしていたのが印象的でした